2014年10月25日土曜日

Rice Paper 88

Rice Paper 88を見つけました。

about 88によると、
フリーマガジンのようです。

バックナンバーから
自然農の川口由一のインタビューを引用します。

「四月末に種を撒いて六月に田植え、そして一一月に稲刈りです。それが毎年の決まったサイクルです。気温が低くなって冷たい空気が上から降りてきたら、身がしまってそれまでなかった成分が生まれるんだと思うんです。柿も一度霜にあたると糖分が増す。柿は冬の初めに一生が終わる。ちょうどお米と一緒なんです。お米も霜が降りてから刈ったほうが甘くなりますのや」

「肥料を使って耕して作っている場合は、養分がお米に吸い取られたら、稲はもう元気に生きておられないんです。秋落ちと言いますけど、秋になったら茎は弱くなってしまいます。台風で倒れるとか、虫が大発生するとか、そういうことになってしまいがちになるんです。自然農の田んぼは、足元が常に豊かでしょ。草の亡骸の層が足元にありますから。お米はよく育てられる豊かな足元のところで、半年から七カ月の命を充分に生きられます。いくら土に養分があって豊かな足元のところでも、寿命がきたら死んでいきますのや。いい環境のところで、全うして死んできます。だからうちの田んぼでは、稲刈り間際まで元気で茎も固いんです。刈ったらサクサクという音がします。ひどい土地のところで育てられた稲は、そんな音はしません。藁が軟らかくなっています」

「化学肥料の農薬を使って、機械を使って、石油を使っての農業を二三年やっていました。身体も心も疲れてくるというか、肝臓の機能がうまく働かなくなってきて、病院通いが多くなったんです。当時農地を大規模にして経営するという国の方針が出てきました。代々小作農でしたから、そこまで大きな土地はないし、農業に未来を感じられなくなっていたんです。そんな農業が楽しくなかった頃、有吉佐和子さんの『複合汚染』の連載が朝日新聞で始まりました。農薬を便利なものだと思っているんだけど、身体は疲れてくるし、精神は楽しくなくなっていく。田んぼから帰ってきても、殺虫剤や農薬を使った日は逃げて帰ってくるようでしたから。そんなときに有吉さんの連載を読んでびっくりしましてね。僕はこんな怖ろしいことをしていたのか、こんな怖い農薬を使っていたのかと。怖いものならば絶対に使いたくない。そういう農業はしたくないと思ったんですわ。同じ頃に福岡正信さんが自然農法、藤井平司さんが天然農法という言葉で警鐘をならしておられた。三人の書物を手にすることによって、ひとつの手がかりを頂きまして。それまでの農業を止めて、自然農として一歩を踏み出したんです」

「三年はお米も全滅でした。それでも続けた一番大きな理由は、辛い農業にもう再び戻りたくなかったから。もうひとつは経験から、自然農で作物が育つはずだという確信があったんです。育てられないのは僕の手の貸し方が拙いから。手の貸し方をうまくやれば必ず育つという確信があったんですわ。お米や野菜を育てることに固定概念がありました。人間のこちら側で形を決めて作物に従わせる、そういうやり方を多くの人は農業でもやっているわけですのや。僕もそうでした。いろいろ試行錯誤でやってみました。農作物を育てるためには、土地の状況だとか作物の性質だとか天候に合わせていかないといけない。人間の都合のように形や時間を決めてはダメなんだ。その気付きが得られたことが大きくて、なんでも育てられるようになるまで一〇年かかりました」

「本来なら土があるところには草が生える。田んぼ一面に草が茂るわけですよ。前は死の世界にお米だけを植えていたんです。他の草が生えてきたら除草剤をふって、虫が動いていたら殺虫剤を散布する。他の生物が生きられない死の世界に田んぼをしてしまっていた。そんな死の世界から田んぼが甦ってきたら、僕の心も和んできて。農をする辛さがなくなって、それだけで僕は良しだったんですよね。たったひとつの品種しか生えていない場所なんて、地球を考えてみれば異常な姿ですよ。できるだけ命の環境にふさわしいように手を貸してあげる。作物の育つか育たないかにおいては一切手を出さないで任せます。水を入れてあげないと実らないことも多い。今ではお米が育つ環境ではなく、人間の都合で健康に育たないような環境にしてしまっているわけです。肥料をたくさんあげることも人間の都合ですわ。他の命を邪魔者にしてしまうことも、お米が健やかに育つ環境ではなくなることにつながります。虫や草は決してお米の敵ではありません。他の命が生きられる土や環境があってこそ、初めてそこでお米も育つことができるわけですわ」

「自然農をやろうとする人は、お金がない人が多いですよ。人生の大展開に差し掛かっている人も多い。脱サラしている方とか学生さんとか。遠いと交通費だけでも大変なんですわ。僕にしてみたら、教える覚悟をしたならば少しでも多くの人に勉強してもらいたい。誰でも参加しやすくするのには無償でやるのが一番いい。僕は自分の畑や田んぼで作物を育てていますから、無償になっても飢え死にしないという確信があります。それと無償にすることが僕にとっては一番実りが大きい。お金に囚われなければ学びが深くなる。実際に三〇〇人学んでいたら、三分の一くらいの人が折々にお金を届けてくれているみたいです。一〇〇人は喜びのなかで感謝の気持ちを持って届けてくれる。残りの二〇〇人は無償で勉強できている。『あ、これは良かったな』と思って。お金を義務として強制しない、共同作業も仕事や時間を課さない。自由にしておいてあげるんです。赤目塾で育った人があちこちで学びの場を開いています。それが僕にとっての一番の喜びなんですわ」

「世間では手作業だから慰めごとの域を出ないとか、あるいは人類の食糧の確保をそんなことでできるのかって言われたりする。だけどそんなことはないんです。視野を広げて、環境問題とか人類の未来に焦点を合わせても、自然農は決して問題を招かない最善の栽培の方法ですのや。人類の抱えているテーマは永続可能な農業、永続可能な社会。永続可能でなければ、もとが無くなるわけですから。田んぼは常に育ててもらう場所です。大自然界における命あるものとしての人間の定めを悟らせてくれる場ですわ。自然の摂理から外れることなく、自然の摂理に則った、命に応じた栽培の仕方を僕はしているうちに育てられて、その途上でいろんなことが見えてきたと思うんです」
日本中の耕作放棄地を自然農で自給自足できるようにすれば、
社会問題の大半は解消できますね。
 

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